長屋王陵以前からどうしても行きたかった長屋王陵へ行ってきました。長屋王(やがやおう・ながやのおおきみ)は、奈良時代の皇族であり、また公卿でもあります。 正二位左大臣。皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となりましたが、対立する藤原氏の陰謀といわれる長屋王の変で自害しました。 御陵は近鉄生駒線の平群駅から歩いて5分くらいのところにあります。 見えてきました。 あ~、ここがあの長屋王の御陵なのですね。 父は天武天皇の皇子の高市皇子、母は天智天皇の皇女の御名部皇女(元明天皇の同母姉)であり、皇親として嫡流に非常に近い存在であったといわれています。 屋王が不比等の娘を妻としていた関係で、不比等の生存中はむしろ王の立場は親藤原氏的存在であったとみる説もあります。 また、元正天皇も自分の妹である吉備内親王とその夫の長屋王に厚い信任を寄せていたといわれています。 このような長屋王の権勢は藤原四兄弟にとっては面白くないものでした。 不比等の生前こそ、舅と娘婿の関係であって関係も決して悪いわけではなかったが、不比等の死後に不比等の娘で聖武天皇の生母藤原宮子の称号を巡って長屋王と四兄弟が対立すると、その対立が露になってきたのです。 藤原四兄弟はでっち上げの密告を作り長屋王とその妃吉備内親王と子の膳夫王らを縊り殺させ服毒自殺させたのです。 本当に悲しい出来事でした。 長屋王がこの御稜で眠っているのですね。 今の世の中を見て何を思っているのでしょうね。 長屋王邸跡はご存知の方も多い方と思いますが昭和61年(1986年)から平成元年(1989年)にかけて、奈良市二条大路南のそごうデパート建設予定地で奈良文化財研究所による発掘調査が行われ、昭和63年(1988年)に奈良時代の貴族邸宅址が大量の木簡(長屋王家木簡)とともに発見され、長屋王邸と判明しました。 当時、長屋王邸は平城宮の東南角に隣接する高級住宅街に位置し、約30,000m2を占めていたようです。 出土した木簡などの遺物は奈良時代の生活を知る貴重な遺産となりましたが、地元や研究者の反対にも関わらず遺構の多くは建設により破壊されました。 巷では、そごうがあっという間につぶれたのは長屋王の祟りではないかなどと言っていたりします。(真意のほどはわかりませんが…。) 現在はイトーヨーカドー奈良店として利用され敷地の一角に記念碑が設けられているのみである 御陵の横には小さな広場のような公園がありました。 妃の吉備内親王も長屋王と寄り添うようにすぐ近くの御陵で眠っています。 吉備内親王は幸せだったのでしょうか。 生きているときはきっと夫婦仲が良かったのでしょうね。 そして、御陵に入ってもすぐ手の届くところに一緒にいられてきっと今でも仲良く語り合っているのではないでしょうか。 さて、今回もとても楽しいお出かけでした。 先輩とは次は京都へ行く約束をしています。 この季節は、家にいるのがもったいないですよね。 |